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「高校野球の経験なしにはM&Aの世界で勝負できなかった」(NewsPicks甲子園100周年記念特集)

2015年07月30日

【リード】(NewsPicks掲載のフルバージョン版)
「野球が、私を作りあげたんです」――そう語る表情に、一点の曇りもない。日本のM&Aの実務と研究の第一人者として活躍するインテグラル代表・佐山展生は、ビジネスパーソンとして、自身の根底にあるのは野球の経験だと断言してはばからない。スカイマークの支援や阪急・阪神統合など、常にシビアな現場で闘い続けている注目の経営者は、甲子園を目指した高校時代に取り組んだ野球から何を学んだのだろうか。その思いを聞いた。

【本文】
◎佐山展生を作り上げたのは高校野球

甲子園というと、一握りの強豪校やスーパープレイヤーが注目を集めますが、大多数は、勉学との両立に悩みながら甲子園を夢見て野球を続けているのを忘れないでください。京都市の母校の洛星高校はまさにそういう学校であり野球部です。今日、私が何とか生きているのは、まさしく野球をしていたおかげです。野球を通じいかに多くのことを学ぶことができたかを少しでも分かっていただければ幸いです。野球で身を立てていこうとは思っていない大多数の高校生の視点でも「甲子園」は重要だと思います。

私が社会に出て人生の岐路に立つ度、思い切った決断をさせてくれたのは高校野球で培った体力と精神力でした。高校時代に体力と精神力を養ったからこそ、これまで数々の修羅場をくぐり抜けることができたと思っています。

高校野球の経験が仕事でどのように役に立ったか? この質問に答えるなら、「すべて」です。今の私は野球なしにはありません。毎日グラウンドで白球を追いかけた経験がなければ、きっと何度も挫折した挙句、どこかで野垂れ死んでいたでしょう。

33歳で帝人を辞めて三井銀行(現三井住友銀行)に入ると言った時には、周囲の全員に反対されました。若い皆さんには想像ができないかも知れませんが、当時は転職自体のなかった時代ですし、職種も銀行はそれまでの技術系とは全く違います。何が不満なんだと言われました。しかし、面接で「M&A」という言葉を初めて聞いて、「『M&A』は面白そう」という思いのみで転職を決めました。当時、こいつは何を考えてるんだろうと周囲は思ったと思います。

30歳になって、大企業で定年までいるのが自分の人生ではないと悟って、司法試験の勉強に真剣に取り組んでいた中での転職。その際、銀行でうまくいく確率はと聞かれていたら5%未満だと答えていたでしょう。しかしもし銀行でだめだったら道路工事や夜警のアルバイトをしながら司法試験に集中しようと思っていました。また、実際にやり抜く自信もありました。そうやってみんなが何を考えているんだという選択肢を選んでその道を貫き通すことができたのは、高校野球で培った体力と気力があったからこそだと思います。

クラウン・リーシング、阪急・阪神統合やスカイマークの案件もそうですが、本当に厳しいM&Aの現場では、毎日色々な予想外の難局が待っています。何回もジェットコースターのように状況が変化しますが、案件が潰れそうなときに如何に踏ん張るかが勝負で、調印するまでその連続です。回りがもうダメだと言っても、1%でも可能性が残っていれば、自分だけは「いや、まだやれる」としぶとく食い下がらないとM&Aはやり切れません。

阪急・阪神統合など難しい案件においては、取組み始めた時は「1%未満の成功確率」という状況からスタートします。そんなに確率が低くても取り組んだのは、勝負は最後の最後まで何が起こるかわからないからです。ビジネスにおいて粘っこく真剣勝負し続けられるのは、ゲームセットになるまで何があるか分からない、また勝てそうにない相手にも勝つことがある等の野球の経験がなければなかったことだと思います。

結局、野球のチームも会社も同じで、リーダーで決まります。メンバーを本気にさせる組織が強いわけです。チームメイトをどれだけ本気にさせることができるか。それを野球のキャプテン時代に経験していたことは、後で振り返ると得難い経験でした。

そのため、私がビジネスについて語る時には野球のたとえが非常に多くなります。これまでの経験を忘れないように色々と書き留めていて、大学の授業やセミナーでそのお話をしますが、それをご覧になると本当に今の私が野球で作られているのかが分かると思います。これから高校時代を振り返りながら、いくつか紹介していきます(以下、強調部分)。

◎野球に明け暮れた中学・高校時代
私は京都の洛星中学校に入学してから、中1の4月から本格的に野球を始めました。中高一貫校だったので、そのまま洛星高校に進学。高校では、上級生が大勢いたので、最初は殆どがボール拾いとグランド整備の毎日。大勢いた上級生の抜けた2年生の秋にやっとレギュラーになりました。秋は2番で春と夏は1番・ショートです。足は速い方で、内野ゴロの捕球とバントには絶対の自信がありました。

練習は毎朝7時からの朝練、昼のグランド整備、そして放課後は日が暮れるまで練習、休みは正月の3が日だけ。毎日がそんな生活だったので、家に帰るとへとへとで、お腹が空いているのですが、食べていても寝てしまいます。眠くて仕方がないので、とりあえずまず寝て、夜中に起きてご飯を食べていたのを思い出します。苦しくても耐え抜いた練習、そこで培われた体力と気力が今の私を作っています。当時まだ大学を出て2年目と若かった西野文雄監督からは、中1の4月の入部直後から6年間ずっと何度も次の2つのことを言われ続けました。「きちんと挨拶をすること」「高校3年生の夏までやり抜くこと」。これが社会に出たら必ず生きると伝えられました。当時は「何を言っているのだろう」とどうして社会に出て野球が役に立つのか分かりませんでしたが、社会に出てみるとまさに実感しました。

夏の甲子園予選が終わって、大勢の上級生が引退した2年の8月にキャプテンになりました。同級生の2年が5人、1年が4人の9人ぎりぎりでした。このキャプテンの経験は非常に大きかったです。神様のように絶対的な監督と、不満を言うメンバーとの板挟みになるうえ、監督がいない時にはみんなを引っ張っていかなければなりません。まさに会社の中間管理職のような存在です。上手くいかないことの方も多く結構しんどかったですが、一生懸命に取り組んだ経験が、間違いなく今につながっています。

高2の秋の新人戦は、予選リーグを大谷高校に次いで2位で勝ち上がり、京都府のベスト8をかけた試合で確か3対1で宮津高校に敗れました。宮津高校の速石投手のコントロールのいいピッチングを今でも覚えています。秋の大会が終わり、元々同級生が5人しかいなかったのに、私以外の4人が、受験勉強を理由に全員辞めてしまい、冬の走り込みの期間は同学年は私一人になってしまいました。受験校だけに心が揺れましたし、新1年生が大勢練習に参加してきて、本当に苦しい冬の練習でした。その後、辞めた同級生の内、エースの豊田暁君と大西哲也君が3月にチームに戻ってきてくれました。戻ってきてくれた二人も、野球を続けたいという思いが心の底にはあったのでしょう。しかし、彼らが戻ってくるまで、春に2年になる4名と1年になる10数名も加えたメンバーと走り込んだ冬の間、新高3、1人で乗り切ったのは本当にかなりしんどい経験でした。冬の練習は、白梅町の近くにあるグランドから、広沢の池に走りに行ったり、校舎の周囲を何周も走ったりしましたが、校舎の周囲を回るときは競争で、常に1番でゴールするように心がけていました。確か、最後の日に2年下の新1年生(後に主将になる岡本肇君)に最後のダッシュで抜かれて悔しい思いをしたのを覚えています。とにかく、冬の間、一生懸命に走りこみました。進学校だったので、周囲からは「あいつら、勉強もせずにいつまで野球ばっかりやってるんや」と思われていたと思いますが、受験勉強なんかやればできると思っていたので、そんなことは気にもせず冬の間走りこんで、高校3年生を迎えました。

春の大会は、塔南高校と対戦しました。相手は当時いわゆる強豪校ではなかったので勝つつもりだったのですが、10−0でコールド負け。不甲斐ない結果でした。私の野球人生の中で、中学から大学まで、恐らく、公式戦でエラーをしたのはこの試合だけだったと思います。しかも2つ。ショート後方の内野フライを落球したほか、ゴロを一塁に暴投しました。すべてがうまくいきませんでした。

先輩も大勢応援に来てくれていた中で、ふがいない敗戦。辛い冬を乗り切ったのに、また大勢応援に来てくれたのに、その結果が惨敗。悔しくて、悔しくて、泣けて、泣けて、涙が止まりませんでした。今でも、そのときを思い出すと涙が出てきます。

◎夏の地方大会で優勝候補を撃破し準々決勝へ

高3の夏の大会前に、西京商業(現西京高校、72年巨人1位指名の中井康之投手他を輩出)と一緒に、バスで金沢に遠征に行きました。夜に宿舎に着いて、率先してトランプをしていたら、コーチの先輩にひどく叱られました。「西京商業のみんなは素振りしてるんやぞ。おまえら、何しに来たと思ってるんや。」主将としてみんなに素振りをさせないといけない立場なのに、先頭に立ってトランプをしていた私は、非常に恥ずかしい思いをしました。しかし、翌日の2試合は、確か、金沢市立工業に3対3の引き分け、金沢商業には6対0で完封勝ちで、西京商業よりもいい成績で、気分よく、西京商業の選手たちとバスで京都まで帰ってきたのを覚えています。

そして夏の京都府予選では、7月21日第一試合の1回戦は洛東高校に6対1で勝ち、その後、雨が続き、2回戦は7月28日第二試合、炎天下の水産高校(現海洋高校)戦でした。水産高校はみんなそれまで聞いたこともなく、自分達にそんな力もないのになめていたのでしょう、4回の表に8点入れ、10対0とリードした4回裏に四球とエラーも重なり6点取られ混戦になり、結局12対8で勝つことは勝ちましたが、すっきりしないゲームでした。試合が終わって両チームがホームベース上で整列した時、主審の当時審判部長の村斉さんから、洛星の方にだけ向いて、「君たちが模範を示さないと誰が示すんだ」と叱られました。野球の試合で主審に叱られるほどでしたから、監督からはひどく叱られたのは言うまでもありません。

そして翌日29日、前日の試合終了から15時間くらいしか経っていない第一試合、3回戦で優勝候補筆頭・大谷高校でした。平安高校が不祥事で出場しなかった大会で、大谷高校は優勝候補の断然トップ。朝日新聞の夏の高校野球特集の1面が大きなカラーの大谷高校ナインの写真でした。対する私たちは、硬式野球ではまったくの新興校。軟式から硬式野球部になってまだ3年しか経っていません。誰も勝てると思っていなかったし、大谷高校も負けるはずがないと思っていたでしょう。

この試合が高校生活の最後の試合になるとの思いで本当に無欲で臨みました。そのせいか、熊本投手の速球のキレが良かったのを覚えているくらいで、試合中の記憶はあまりありません。9回裏のショートの守りにつく時に「あれ、2対0で勝っている」と初めて気が付きましたが、今度気が付くとノーアウト満塁のピンチになっていました。8番バッターが三振し、左打ちの9番バッターが打席に入り、次の1番田中選手がベンチ前で素振りをしていました。田中選手は、見ただけで野球センスを感じる選手で、やはり大谷は強かった、やられたなと思いました。しかし、9番バッターは2塁ベース寄りのセカンドゴロ。セカンドのトスを受け一塁に投げてダブルプレー、試合終了となりました。必死で走ってくる一塁ランナーの熊本投手の顔を今でもはっきり覚えています。優勝候補を完封し、球場が湧きたったのを覚えています。

次のベスト4を懸けた準々決勝は3日連続の3連戦で7月29日第三試合、強豪の花園高校(元大洋ホエールズ(現DeNA)の齊藤明雄投手は、76年大洋の1位指名で、1年下でしたが、この試合ではベンチにも入っていなかったと思います)。この試合、7回表まで6対0で勝っていて、豊田投手も調子が良く、その時までノーヒットノーラン。しかし直後の7回の裏、花園の選手がバットを振らなくなりました。フルカウントまでいきますが、きわどいボールは全部ボールで七連続四球。ヒットも打たれ、6対6の同点になってしまいました。(岡崎具樹捕手が、きわどいボール全部入っていると言っていたので、試合後、コーチが主審に抗議した程です。高校野球で主審に抗議することなどありません。そのときの主審の答えは、「全部ボール3分の1外れていた」というもので、新興校と古豪の差による不公平な判定ではなかったかと今でも洛星野球部では語り草になっています。)それでも、8回の表に1点を勝ち越し、迎えた9回表、ノーアウト1、2塁で私に回ってきました。私の打順は1番、野球を知っている人なら、誰が考えても送りバントです。ベンチを見ると、監督は「打て」のサイン。この試合、たまたま2本ヒットを打っていたので、次の球、思い切りバットを振りました。手ごたえは十分。今でもその感触を覚えています。しかし、結果はライトライナーで、ランナー二人が走っていてダブルプレー。結局、チャンスを生かせませんでした。ベンチに戻ると、監督から「どこ見とるんじゃ!」と怒られました。サインは、バントエンドラン(走者は走り、打者はどんな球でもバントする)だったのです。そう言えば、中1から前日までずっと監督がサインを出していたのですが、この試合前の円陣で、今日は監督ではなくマネージャーがサインを出すことを伝えられていたのを完全に忘れていました。中学から大学まで、サインを見逃したのは、これが最初で最後でした。

そして、9回裏、無死1塁で、おあつらえ向きのダブルプレーコースのサードゴロをセカンドに暴投、2・3塁、そこでレスト前にヒットを打たれ、逆転サヨナラ負け。私達の高校野球はベスト8で幕を閉じました。

◎夏の大会から得た勝負の摂理

そのときは分かりませんでしたが、社会に出て色々な経験を積んで、大谷高校との試合からは、「人間の力には、それほど差はない」ということを学んだのだと思いました。実力で言えば彼らの方が圧倒的に上なのですが、勝敗は実力だけで決まる訳ではないのです。スポーツを経験された方ならわかると思いますが、強いチームの選手は、グランドに出てきただけで「うまい」「強い」感じを醸し出しています。まさに大谷高校の選手たちは、強豪校そのものでした。しかし、実力では明らかに劣っていても勝利した。実力だけで勝負は決まらない、「気持ち」の大切さを教えてもらいました。無心に相手にぶつかれば、勝機は訪れます。「『弱いと思っていたもの』が『強いと思っていたもの』に勝つ、そこに勝負の醍醐味と興奮がある」のです。ビジネスでも同じです。最後まであきらめず、無心に立ち合う姿勢が勝利を呼び込みます。また、「勝てると思うから隙ができる」、結果が出るまで集中することが重要です。

そして、最後の花園高校の試合で得た教訓は、「負ける時は原因が一つではない」ということ。7回表にバントのとてもうまい同級生がスクイズを空振りしました。追加点を入れていれば7対0で7回コールドゲームになっていましたし、主審の判定がもう少しフェアなら、私がサイン見落としをしていなければ、最終回にセカンドに暴投していなければ……挙げるといくつもの敗因がありました。「事故や敗戦の原因は一つではない。いくつものミスが重なって事故や敗戦につながる」ことを教えてくれました。

もちろん、高校生の頃にはこのような分析はできませんでしたが、社会に出ていくつもの壁にぶつかり、野球で得た経験とつながるようになりました。ビジネスと野球は驚くほど共通点があります。野球で負けた時の悔しさから「勝負は僅差でも勝たんとあかん」ということも学びました。野球もビジネスも善戦してもだめ。結果を出してなんぼだと思っています。

◎甲子園が、甲子園らしくあるために

私にとって甲子園は、夢や憧れというにはおこがましいほど遠い彼方の存在でした。ただ一瞬だけですが、3年の夏に、それが手に届くかもしれないと思えました。その年に優勝したのは、決勝で花園を下した宮津高校でした。あのまま勝ち進めば、2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝、決勝、そして京滋大会と何と6連戦になっていました。結局、宮津高校も、1日休んでいた滋賀県予選優勝の比叡山高校に負けて京滋の代表になれませんでした。

今年で高校野球が100周年を迎えますが、甲子園の夏の大会における優勝が頂点だということは変わってほしくありませんし、最後の夏にすべてを懸ける球児たちの全力プレーを、いつまでも見たいと思います。

ただ、そのためには、これまで指摘されている問題も含め甲子園のあり方を変える必要があると思います。

1.過密スケジュールの改善

当時、私たちが甲子園に出場するためには、2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝、決勝、そして京滋大会と何と6連戦になっていました。結局、京都府優勝の宮津高校も、1日休んでいた滋賀県予選優勝の比叡山高校に負けてしまいました。6連戦は、特に投手には過酷すぎます。現在はそこまでの連戦は珍しくなりましたが、投手にとっての負担はいまだに大きいままです。

甲子園大会は、夏休みの特定の期間に日程が押し込められていますが、これは夏休みを活用しようというある意味「大人の都合」で決まっています。今年の京都府大会は、7月11日(土)から始まっています。もっと前倒しで、
@ 6月下旬からスタートする。
A 平日の夕方の試合も入れる。
B 最初は近隣地区同士の対戦にし、球場までの移動時間を短くする。
6月下旬から日曜祝日に加え平日の午後もやれば、特に準々決勝後の試合の間隔も取れるようになります。

2.勉強等と両立しながら練習に励む球児にもスポットを当てる。

甲子園というとどうしても、ほんの一握りの強豪校やスタープレイヤーが注目を集めますが、大多数の高校生は、将来、野球で生計を立てるのではないが、野球に真剣に取り組んでいる学生です。それでも、野球の特別枠で選手を集めている強豪校を相手に彼らに挑戦している選手たちが大多数です。春の甲子園には、秋の大会の記録を参考に「21世紀枠」があり、そのような高校が甲子園に出て、なかなか健闘しています。夏にも、何校か「21世紀枠」を設定するとそのような学生の励みになると思います。勉学との両立に悩みながら野球に打ち込んでいる学生に大きな希望を与えると思います。

いよいよ、今年もまた甲子園が開幕します。皆さんには、一握りの強豪校やその注目選手だけでなく、ぜひ出場している選手ひとり一人に思いをはせていただきたいと思います。たとえ一打席だけの出場で三振に終わっても、ベンチで声を出して出場機会のなかった選手たちも、ベンチにも入れないで応援席でユニフォームを着て大声で応援している選手たちも、彼らは厳しい練習に耐え、苦しさを乗り越えて、グランドだけではなく、応援席で、晴れの舞台に立っています。勝ち負けを越えた高校生活の集大成を見てほしいと思います。元高校球児として、高校野球に力いっぱい取り組んだ高校生が、そこで得たものを生かして、将来、力強く生き抜いていくことを心から祈らずにはいられません。全力投球した高校球児に幸あれと願いたいと思います。

(追記)
今年の68校参加の京都市中学校野球夏季大会で母校の洛星中学が39年ぶり2回目の優勝を果たしました。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kyotochugaku-yakyu/kyoto.html 
http://www.rakusei-baseball.net/index.html 
7月29日(水)京都府大会準々決勝、西京極中学に勝ちましたが、30日(木)準決勝は、残念ながら優勝した詳徳中学に敗れました。中学も優勝するには2日間で3試合です。洛星中学の選手のみんなが、高3の夏まで続けて甲子園に出場することを心より願ってやみません。
(了)



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正当防衛は当然だが、戦闘は避けるべき

2006年09月02日

今日、安倍官房長官報道ステーションに出演され、その際、戦闘行為に参加すべきではないという趣旨の発言をしましたが、いくつか誤解されているような内容のご意見をいただきましたので、ここに確認しておきたいと思います。

日本や日本人が攻撃されたときに反撃する「正当防衛」をまったく否定していません。正当防衛は当然の行為です。しかし、同盟国が攻撃されているからといって、「戦闘」に参加すべきではないということを言ったつもりです。戦闘に参加するということは、その国との恨みの連鎖に突入し、泥沼に突っ込むことになり、自衛隊員の戦死者がどんどんでてしまうということです。私は、そのような事態は避けるべきだと思います。



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富士登山:目指し続けると目標に近づける

2006年08月12日

8月11日金曜日の20時前に富士登山に向け東京を出発した。これまで富士登山を例に,ある程度以上難しいことは「これをやるんだ」と決意しないとできないと話してきた。一度富士山に登りたかった。今回はGCAのメンバー6人で夜間登山しご来光を拝もうという企画だった。富士宮口の5合目に着いたのが午後23時半頃。それから頂上に向け出発した。最近長距離を走ってはいないが、富士山くらいは登れるだろうと高をくくっていた。その思いは6合目の小屋に着いたときに木っ端微塵に打ち砕かれていた。日の出までに頂上まで行く自信がまったくなくなった。

6合目まで来ればはるか彼方に7合目の小屋が見える。えっ、あそこまで登ってもまだ7合目か。富士登山を甘く見たのを後悔した。一歩一歩急な斜面を登る。あと少しで7合目だ。そしてやっとの思いで7合目に到達。そのとき、長距離のプロの本間さんから「マラソンと一緒で、立ち止まらずにゆっくりでいいから休みながら少しずつでも進むこと」との助言を得た。それを実践してみると、なるほど、確かに殆ど進んでないくらいなら疲れる量よりも休養の量の方が多いようで、少しずつ進みながら休めることが分かった。少しずつ少しずつ進みながら、8合目、9合目を経て、朝の4:15頃に山頂に到達した。足、膝は限界だった。いやぁ、これまで運動不足だったんだと実感した。

頂上に着くと殆どエネルギーを使い果たし精根尽き果ててぐったりしている若い人たちがたくさんいた。苦しかったのは私だけじゃなかったんだ。でも頂上を目指した6人全員が日の出までに登頂できたことは何よりであった。今回の富士山登頂で得たことは、「目指し続けると、目標は遠ざかることはなく確実に近づく」ということだった。得るものがとても多かった一日であった。



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夏の高校野球:力の上のものが勝つとは限らない

2006年08月06日

今日から夏の甲子園が開幕する。この季節になると高校3年生の夏の大会を思い出す。京都の洛星中学に入学し中学1年生の4月から高校3年の夏の大会まで、正月以外ほとんど休みなく朝練、昼のグランド整備、日が暮れるまでの練習と野球漬けの毎日だった。今年の洛星は準々決勝で甲子園出場を果たした福知山成美に6対4で逆転負けした。惜しかった、後輩たちの健闘を称えるとともに、福知山成美の甲子園での健闘を祈りたい。

もう35年も前になるが、高3の夏の大会は、現在の私の原点でもある。この年は、秋の新人戦、春の大会ともに平安が優勝、大谷が準優勝の年だった。しかし、平安が不祥事のため出場できず、大谷高校が優勝候補筆頭の年であった。1回戦洛東高校、2回戦水産高校にそれぞれ勝ち、3回戦で優勝候補筆頭の大谷高校と対戦した。大谷には秋も確か4対1で負けていた。これで長かった洛星での野球生活も終わりだとの思いで西京極球場に向かった。

その日の心境は、まったくの無欲だった。気がつくと9回表を終わって2対0で勝っていた。9回の裏、ショートのポジションに向かうときに初めて勝ちを意識した。しかし、瞬く間にノーアウト満塁、やはり負けたかとの思いがよぎった。8番バッターが三振、1アウト満塁。9番バッターが二塁ベースよりのセカンドゴロを打った。セカンドからのトスを受け、1塁に転送、ダブルプレー。大谷に勝利した瞬間、西京極球場がどよめいた。力では圧倒的に大谷が上だった。大谷のエース熊本投手の直球は伸び、制球力もよく素晴しい投手だった。勝負は力だけではない、力が上のものが勝つとは限らない、人間の力の差なんてそんなに大きくないんだということを教えられた。

その翌日、準々決勝で花園高校と対戦した。3連戦で午後の一番暑い時間帯での試合だった。7回の表まで6対0でノーヒットノーランで勝っていたにもかかわらず、7回の裏に7連続四球(エースの豊田投手の名誉のためにも付け加えておきたい。7四球の内の2つか3つは見逃しの三振でチェンジでもおかしくなかった)などで同点にされ、9回の表に1点とって再びリードしながらも9回裏に逆転サヨナラ負けした。長かった洛星での野球生活が終わった。涙が止まらなかった。

純粋に白球を追っていた頃、あのときを思い出すと気持ちがきれいになるような気がする。いつまでも純粋に何かに打ち込む気持ちを持ち続けたいものである。高校野球球児の皆さんのこれからの長い人生での活躍をお祈りしたい。



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出る杭は打たれるか?

2006年07月27日

今回の阪急・阪神問題で人間として学ぶことが多くあった。そのひとつが、世の中、現状に不満を抱いていて幸せそうに見える人の足を引っ張ろうという人たちがいることを実感したことだ。

なぜ幸せそうな人を叩きたがる人がいるのだろうか。それは恐らく、現状に不満を抱いている人たちが自分よりも幸せそうに見える(実際どうかは本人にしか分からない)人を引き摺り降ろすことによって自分との相対的な距離を縮めようとしているようにしか見えない。人を引き摺り降ろしても自分の絶対的な幸福度は変わらないのに悲しいことだ。出る杭を見ると打ちたくなるようだ。

しかし重要なのは、不満のエネルギーを自らの絶対的な幸福度アップにつなげられるかどうかである。不満は、現状に満足している人には絶対に出せない強烈なエネルギーを生んでくれる。前回HPで書いたように、私も現状の世の中に強烈な不満を抱いた時期が何度もあった。今不満を抱いている人たちが少しでもそれに気づいて自らのためにその不満のエネルギーを前向きに燃焼してくれることを望みたい。



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苦境の効用:ピンチはチャンス

2006年07月02日

4月から阪急・阪神問題に集中し、HPの更新も全くできなかった。何が起こっていたかは外からは分からないだろうが、19年間M&A関連の仕事をしていて、私自身、今回が最も消耗した案件だった。しかしやっと、両社の株主総会も終了し、この両社が新たなスタートを切ることになった。素晴らしい私鉄グループを創られることを祈念したい。久しぶりにRandom Talk を更新することにする。

人生、出口がないんじゃないかと思うほど落ち込むことがある。今の日本の世の中がおかしいんじゃないかとやり場のない矛盾を感じることがある。少なくとも、私はそのような苦境に陥ったことが何回かあった。その内容はともかく、その苦境があったからこそ、その度に新しいことに挑戦できた。苦境に陥っていないということは、現状に満足しているということであるから、思い切って新しい世界に飛び出す動機もなく現状を大きく変えることはできない。

現状に不満があるとき、苦境に陥っているとき、愚痴を言っているだけでは現状は打破できない。前途ある若い人達に言いたい、ピンチはチャンスであることを肝に銘じ、前向きに不満のエネルギーをぶつけるものを見つけ、自分で自分の世界を切り開いてほしい。言葉はよくないが「この野郎」と思う不満が変革の原動力になると思う。



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日経ネットのBiz+Plusコラム掲載

2006年04月11日

4月から日経ネットのBiz+Plusのコラムに投稿することになりました。初回は、今までの私の「会社とは何か」についての考え方について書きました。ご興味のある方はご覧ください。



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「幸福考」 (補足)

2006年03月01日

先日の「幸福考」で言いたかったことは、「幸せと感じる絶対レベルはない」ということと、「お金を目標にして追ってもいつまでも幸せになれない」ということでした。
変化率にお金を例としてあげたのは、定量化が容易だったからです。
若干、メッセージが伝わりにくいところがあったようなので補足しておきます。



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「幸福考」

2006年02月24日

幸福の「永さ」について考えてみた。
人間、どれくらい幸福と感じ続けられるのだろう。
そもそも、幸福と感じる絶対レベルというものはなく、不幸から幸福に向かう変化率幸福感の源泉ではないだろうか。

たとえば、一銭もない人が、1万円もらったら大変幸福に感じるだろうけれど、年収1億円の人が1万円もらっても、単にうれしいだけで幸福とまでは感じないだろう。
また、一銭もなかった人が、毎日1万円もらい続けたときに、数日は、もらう度に幸福に感じるかもしれないが、1ヶ月もたてば、そんなに感激はしなくなる。この人を金銭だけで幸福だと感じさせるレベルは、10万円くらいになっているかも知れない。

そういう観点で、幸福感を持続するには、絶えず前の日よりも多くの金銭を得る必要がある。
数学でいう微分係数(前からの変化の度合い)の大きさが幸福感の源泉なのだろう。この微分係数も人により違い、少しで幸福に感じる人もいればそうでない人もいる。お金持ちが必ずしも幸福でないというのは、この辺に原因があるかも知れない。

(以上は、平成14年5月27日の私の日記です。ライブドア問題でまた考えさせられることになりましたので、掲載しました。)



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格差と底辺 :小泉首相の発言に思う

2006年02月02日

2/1、小泉首相が「格差が出ることは悪いとは思わない。成功者をねたんだり、能力のある者の足を引っ張ったりする風潮を慎まないと社会は発展しない。」と発言。民主党の鈴木寛氏は「この10年で子供の就学に経済援助が必要な家庭が2倍に増えた。」と発言した。

私は、伸びようとする者達の頭を押さえつけるのは賛成ではない。1980年代までは一度就職すると定年まで同じ会社で働くことが当たり前で、転職することに後ろめたささえ感じる時代であった。当時、大学を出て社会のことが分からないうちに一旦就職してしまいその先の人生が決まってしまう、ということへの強い憤りを感じていたのを思い出す。自らの仕事を変えることすら難しかった時代であった。それに比べれば、今は自由度が格段に増している。自由度が増すということは格差が大きくなることをも意味する。したがって、格差ができてしまうこと自体は仕方がないと考える。

しかし、30から50だった格差が拡大し10から100になったのか、底辺が同じ30から上だけ伸びて100になったのかが重要だと思う。すなわち、上が上がっただけではなく、底辺が下がってしまったのか、底辺は同じで上だけ伸びて格差が広がったのかが重要ではないか。伸びようとする芽をつぶさず伸ばす一方で、底辺は下がらないように支える仕組みづくりが大切だと思う。

最後に、お金を持って経済的に豊かなことが偉いわけではなく、よき人達に囲まれ精神的に豊かなことこそが幸せであることを再認識すべきではないか。



雑感

お金は第一の目的か

2006年01月16日

ライブドアの証券取引法違反の強制捜査の報道がなされている。ライブドアマーケティングのM&Aに関し、風説の流布や偽計についての容疑からの捜索だという。実際にどうだったかは今は分からない。

しかし、先日、小学校の低学年の子供投資の勉強をさせたりしている風景がテレビで報じられていた。小さな子供がお金を儲けることを目的に投資ゲームに興じる。小さな子供には、生き物を愛することや他人への思いやりの気持ちを教えるのが先ではないか。人間としての基礎を築かないといけないときにその装飾にとらわれてはいけない。

確かに若くして起業しその事業を立派に育て上げることは賞賛に値する。しかし、近頃、若い人たちがお金を持っていることが偉いと思っているふしがある。お金は、何かいい仕事をしたときに結果として入ってくるものであるべきだ。お金が入れば何でもする、またお金を持っているのが偉いというのには違和感がある。お金を稼ぐことを第一の目的にしている人には真の友達はできない。子供や若者は、豊かな心を養い、いい仕事をすることを目指して欲しい。お金はその結果として入ってくるかも知れないものではないのかと思う。



雑感

原さんの巨人監督に期待

2005年10月05日

今日、さんが巨人の監督になることが発表された。原監督はハートのあるリーダーで、巨人ファンではないが好きな監督である。よい成績を残して、フロントを含め巨人のもつ問題点を解決し、プロ野球界自体の活性化に貢献されることを期待したい。



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若手の育成:巨人の元木選手の引退に思う

2005年10月03日

10月3日、巨人元木選手が33歳の若さで引退を表明した。元木選手は大阪・上宮高校時代の89年のドラフト会議でダイエーから指名を受けたが拒否して、翌年、巨人軍ドラフト1位指名で入団した。高校時代、甲子園でずば抜けた打撃センスを披露した。

当時、阪神など巨人以外に入団していればすぐにでも主軸打者に定着してもおかしくなかった。しかし巨人はオールスター並みの強力打線であり、入団後、レギュラーに定着することは殆どなかったように思う。巨人の選手であることに満足し、精一杯精進していたようには見えなかった。入団する球団によっては名選手になる素質を持っていた。巨人が出来上がったスーパースターを集めた集団であり、若手選手を育てる風土を持たなかったのが残念でならない。

企業も将来の経営幹部育成を怠ると潜在的な能力のある若者将来をつぶしてしまうことになることを肝に銘じなければならない。



雑感

「看板」と「実力」

2005年10月01日

「看板」を作るのは、「実力」のある人達が時間をかけてやっとできるものであろう。実力のない新参者が看板を作ることはできないし、実力があっても時間をかけないと看板は築けない。

しかし、一旦、「看板」ができると、その看板で仕事をしている人達が「実力」があるように世間からは見えてくる。ある一定以上の実力を維持できれば、実力のあった創業者達が作り上げた信用や顧客を維持できる。しかし、実力が伴わなければ「看板倒れ」となり徐々に信用や顧客を失うことになる。看板のみで判断するのは実力を見極める力を持たないからである。

「看板」のあるところに依頼して失敗しても自分の責任ではないと言い訳できるが、看板のまだない「実力」のあるところに依頼して失敗すれば自分の責任問題になる。

しかし、重要なのは失敗したときの言い訳ではなく、目的を完遂する「実力」である。伸びる企業は実力を見極める目を持つことが必要条件である。さもなくば、実績を上げられないからである。何もないところから大きなものに立ち向かい「実力」で「看板」を築き上げようとする企業を応援していきたい。



雑感

駒大苫小牧の優勝は取り消すべきではない

2005年08月24日

駒大苫小牧が夏の甲子園2連覇を達成した矢先に野球部長の暴力問題が表面化した。この暴力問題がどこまで問題かは、どの程度の暴力だったかによるのかも知れないが、それを確認する術はない。仮にとんでもないひどい暴力であれば、すぐに警察に連絡されたであろうし、そこまでではなさそうだとは推測される。であればどうして表面化するのか。それは恐らく、この選手と部長との信頼関係の崩壊にあったのであろう。

優勝を取り消すべきかどうかについて議論されている。これは、基本邸には、優勝を取り消すことと、今回の暴力とどちらが重いかで決するべきではないか。取り消された場合どうなるだろう。駒大苫小牧の野球部のメンバーは、野球をずっと続けてきたこと自体も話す気にもなれないほどの傷を負うことになる。仮に京都外大西が繰り上げ優勝になったとしても京都外大西も嬉しくないだろうし、また優勝校なしとなった場合、永久にこの年の心の傷毎年夏になれば思い起こさせることになる。また、暴力を振るわれたという選手の方の傷も一生消えることはない。怪我をした訳でもなくそこまですべきなのか。

一方、取り消されなかった場合、しばらくは取り消すべきだとかいう議論がなされるであろうが、暫くすれば風化していくだろう。いずれが、罪のない選手たちにとっていいのか。明らかである。高校野球関係者の理性に期待したい。



雑感

「分かりやすさ」と「徹底しやすさ」

2005年08月16日

東急東横線に乗った。最近、横浜サイドの車両1両が平日の特急と急行ならば女性専用車両になる。今日、特急に乗るときに、平日なのでその女性専用車両の隣の車両に乗った。すると、アナウンスはされていたが、結構、女性専用車両に男性が乗っていた。物事なかなか徹底するのは難しいようだ。確かに、渋谷から横浜に向かう電車の一番前に乗るときには、まず、平日かどうかを確認して、特急や急行でないかを確認しなければならない。平日でなかったり各駅停車なら、「女性専用」と大きく表示されている車両でも乗ってもよい。少し分かりにくい。

もしも、曜日に関係なくまた各駅停車でも常に女性専用にしたなら、乗客にとって分かりやすいし、女性専用車に乗る男性も激減するのではないか。もちろん、いろいろな事情があってそうできないのだろうけれど、どうも「分かりやすいこと」と「徹底しやすいこと」とは相関があるようだ。分かりやすければ徹底しやすく、分かりにくければ徹底しにくい。経営も同じで社長のメッセージは分かりやすいのが一番である。

その意味で、今回の衆議院選挙小泉さんの主張は単純で分かりやすい。一方の民主党はじめ他の野党の主張は分かりにくい気がする。分かりにくいと国民に主張が徹底しにくい。この差が選挙にどのように影響するだろうか注目したい。



雑感

りそなホールディングス細谷会長との対談(Forbes 6月号)

2005年04月22日

先日、りそなホールディングス細谷会長と対談を行った。Forbes6月号
細谷さんは、旧国鉄からJR東日本の副社長のご経験があり、官僚的な方かと勝手に想像していたが、非常に純粋な志をお持ちで全く官僚的でない親しみやすい経営者であった。会長室は全面ガラス張りでその上、部屋の境目のガラスの上も数10cm空いていて密室になっていない。細谷さんの周りの方々も活気に満ちていた。”一客百来”を標榜されていて、メガバンクには真似のできない親しみの持てる銀行を目指しておられる。目標達成もそう先のことではないような気にさせられた。りそな銀行を応援したくなった



雑感

「ど真ん中の直球がボールじゃ野球にならん!」

2005年02月21日

西武鉄道の前社長が自殺した。非常にいたましいことである。組織に属していると、一般に非常識なことでもその組織の中では当たり前になっていることがよくある。西武鉄道の場合、金正日化したオーナーの前に非常識が当たり前となっていたことが多々あったと容易に予想される。金正日のようなドンの存在する組織に途中で入って非常識な不正を正すのは極めて難しい。この自殺した前社長が気の毒でならない。1996年3月18日のDiaryで集団の中でのルールについて考えている。

『南海の孤島でひとりで生活をしている人でない限り、この人間社会のいたるところにルールがあり我々はそれらのルールを守っていかなければならない。より良い社会を作るためには、このルール自体が“まともな”ものでなくてはならないことは言うまでもない。例えば、野球でバットやグローブのような道具を使ってはいけないということになれば、子供の頃よくやった柔らかいゴム鞠を手で打つようなゲームになってしまい、野球は、野茂やイチローが活躍するようなダイナミックなスポーツとはなり得ない。集団が何かに向かって行動を共にする場合、この集団にどういうルールを設定するかでその成果が大きく左右されることになる。
これは企業でも同様で、例えば、どういう仕事をしたときに評価され昇格するのかということが明確化されていなければ、プレーヤーも動くに動けないし、それが不明確であれば、場合によっては、動けば損だというような風潮にもなってしまう。おかしなルールが蔓ってしまうと企業そのものが死んでしまう。これは野球に例えれば、ワンバウンドしなければストライクじゃないと教えられてピッチング練習をしている投手のようなものだ。そこでは審判もそのルールを正しいと信じ自信をもって判定するとする。そのような集団の中でいくらうまくワンバウンドさせる技術を身に付けても、一歩その球団の外へ足を踏み出せば、そのような球は皆に全く相手にされない。いくら野茂のような素晴らしい素質を持った投手が150キロ以上の真ん中の直球を投げても、ボールと判定されたのでは、野球にならない。これは、その素晴らしい素質を持った投手の不幸に留まらず、そのおかしなルールをもっている集団・企業の不幸でもある。このルールを正せるのは個々のプレーヤー(社員)ではなく、集団の監督であり、オーナーである。
この人間社会には、そのルールが守られて集団がうまく運営されるように色々な形での審判が存在する。仮にそのルールが正当なものであったとしよう。野球のストライクゾーンに例えればホームベース上の打者の脇から膝の高さがストライクと定められているような状態である。この場合、野球というゲームを面白くするという意味でのルール作りは間違っていないと考えてよい。しかしながら、いくらこのルール自体が正当なものであったとしても、実際にストライク・ボールの判定をする審判がおかしければ、野球にならなくなってしまう。このような判断基準のまともでない審判のもとでプレーする投手は、投げる気力を失い、おかしな判断基準で評価する上司のもとで働く社員は、頑張る意欲を失うのである。
際どい球は色々な見方があるにしろ、少なくともど真ん中の直球はストライクになるルールであり、その判定のできる審判をそろえておかなければ、強い球団はできない。ど真ん中の直球がボールじゃ野球にならんのである。組織でのひとりひとりの評価も同じで、目標を明確に示し、それを達成したときに評価する仕組みは、組織の活性化の礎である。』
おかしなルールやとんでもない評価をする審判しかいない組織に長居は無用である。その組織に愚痴を言う前にその組織を飛び出すことだ。意見を言って変わる可能性があればまだしも、本当にだめな組織であればそこで意見を言うのは貴重なエネルギーのロスである。



雑感

「今しかできないこと」を精一杯やること

2005年01月29日

母親が大動脈瘤で救急車で運ばれ心臓の手術をした。体温を20度に下げ一旦心臓をとめて大動脈を人工血管に変えた。5時間ほどの大手術だったが無事終了し、少しずつ回復に向かっている。そこで、人はいずれやりたいことができなくなるという当たり前のことを思い出した。以下は、平成10年10月18日のDiaryからの引用である。
「台風一過の快晴の日曜日、駒沢公園でジョギングをした。すると、病床から起き上がったばかりのようなお婆さんが、娘さんか誰かに車椅子に乗せてもらって散歩(?)をしていた。車椅子でも気持ちのいい日ではあるが、自分で歩けばもっと気持ちがいいことは間違いない。いずれ人は走れなくなり、歩けなくなる。走れなくなると、もう自分は走れないといい、歩けることの幸せに気づかない。歩けなくなって初めて歩けたことの幸せを感じる。いまやりたいことに挑戦できる、それだけで幸せなのだろう。
今しかできないことは何かB後で後悔しないためにときどき立ち止まって考えることにしよう。」

さて、今しかできないことは何か?仕事では、昨年の4月から一橋大学大学院国際企業戦略研究科で社会人の方たちにバイアウトやM&A関連の講義を行っている。これはまだ試行錯誤の状態であるが今年1年でこの分野、日本トップの講義にしたい。また出版の宿題が溜まっているが、今年は少なくとも3冊の本を出版したい。これらは今しか書けない本たちである。
つぎに、M&Aアドバイザー専門会社GCA鰍日本の業界トップにし、3年以内に株式公開すること。幸いに若い優秀な人たちが参加してくれてきていて、昨年の4月に4人で始めた会社も現在11人。2月にも2人、3月にも3人入ってきてくれる予定で、着々と陣容が厚くなってきている。秋には30人体制になっているだろう。3月の中旬には帝国ホテル横で日比谷公園沿いの大和生命ビル23階に移転する。今、11人しかいないが171坪と多少広めである。しかし、順調に業容が拡大すると1年後には狭くなっているかもしれない。
更に、ゴルフである。これがなかなかの難物で、奥が深い。大学を出てすぐに自己流で始め、結構早くハーフで30台などが出たもんだから甘く見ていたのかもしれない。3年ほど前に千葉の成田の総成カントリー倶楽部に入ってまじめにやって初めてゴルフの怖さを思い知った。それまで練習などしたことがなかったのに、練習をしだしたものだから色々なことを考え始め、やればやるほど下手になって行った。そこで、初めて習おうと決意し、柿の木坂ゴルフ研究所の門を叩いて、グリップから何から何まで変えられた。そのお陰で1年少し前にJGA(日本ゴルフ協会)のハンディ11まで辿りついたが、昨年9月からシャンク病(短い距離が右45度にとんでもない方向にとんでいく病気)にかかり、今月ハンディが12.1まで下がった(今年からJGAのハンディの計算方式が変更になって少数第一位まで決定されるようになった)。何とか片手ハンディ(5以下)を目指して精進したい。



雑感

「価値と対価」について:「青色LED訴訟」に思う

2005年01月13日

平成17年1月12日、青色LED訴訟に関して東京地裁の勧告で中村教授と日亜化学が6億円で和解したとの報道が流れた。東京地裁で200億円だったものが6億円で和解とはおかしいなと思っていた。やはりその後、中村教授は「100%私の負け、日本の司法は腐っている」と記者会見した。一方、日亜化学は「主張が認められた」と勝利宣言とも思える発表があった。これを見ても明らかなように、今回の和解金額は余りにも低い

確かにその青色LEDの特許を見たわけでもなく、中村教授がどの程度その発明に主体的に関与していたかを知っているわけでもないが、私も技術者としてある時期を過ごしたことがあり、ある程度の相場観があ驕B中村教授がいなければ今の日亜化学の収益基盤はできていなかっただろう、明らかに中村教授の発明の価値は大きいと推測される。またその発明の「価値」は6億円なんてものではないだろう。「価値」の計算の基本となる利益額を、東京地裁では1200億円であったのに対し、今回の高裁はその10分の1の120億円とした模様である。開発できないであろうと言われていた世界で初めての青色LED技術の基本特許の価値が120億円のはずはないような気がする。また、特許の価値について、味の素の訴訟等これまでの裁判では利益の5%が発明者の貢献分であるとしている。研究経験のない裁判官だから仕方がない面もあろうが、対象特許の利益自体を堅く低めに見積もっているような状況下で、発明者の貢献分が5%とは低過ぎる。
しかし特許の「価値」の議論とは別に、ここで問題となってくるのがその「対価」である。個人と組織とのGive & Takeの関係である。「価値」があるから必ずそれに相応しい「対価」が支払われるとは限らない。転職の動機で最もおおいのが、働く人が自分で考える価値よりも低い対価しか支払われていないということであろう。そもそも、どこかの組織に所属するということは、その組織のきまりに従うことが前提になっているはずである。もともともらえる仕組みであったのならともかく、もらえない仕組みであることを分かっていて後でその「価値」に相応しい「対価」を要求できるかということが問題となる。本来、「価値」に相応しい「対価」が支払われるべきであるが、それまでの「対価」の支払い方を変えてまで支払うべきであろうかということである。
今回の中村教授の訴訟の件は、残念ながら、「価値」に相応しい「対価」を支払われる仕組みのない会社にいたので、満足いく額を得ることは難しいと思う。しかし、特許の「価値」自体は和解で示されたよりも圧倒的に高いと思う。今後同様の発明に対してはそれに相応しい「対価」が支払われるよう、また世に発明の価値を認識させられるよう、6億円を失ってでも和解せずに頑張って欲しかったような気がする



雑感

プロの瞬発力と組織の硬直性

2005年01月08日

平成17年1月8日土曜日午後4時前、国立競技場での高校サッカー準決勝第2試合、晴天の中での大接戦、市立船橋が2:1でリードしロスタイム3分、そのロスタイムもなくなる寸前にコーナーキックで星陵が奇跡的に追いついた。星陵サイド感激の渦、最高の試合である。試合はPK戦へ。そして1人ずつ外してPK4:4で5人では決着がつかず、市立船橋の6人目がボールに向かって走り始め盛り上がりが絶頂のその瞬間、コマーシャルで番組終了。えっ?確かに色々な事情はあるでしょう。しかし、その次の番組がドラマとかニュースとか映画とか全く別のジャンルの番組ならいざmらず、次の番組がこれら2試合の準決勝をダイジェストする30分の「蹴球魂」とは皮肉な話である。何がサッカー魂なのか?

更に、この「蹴球魂」が始まってすぐにそのPK戦の模様を映し出すならまだ許せる。しかし「ただ今PK戦の結果が出ましたが、準決勝の第1試合のダイジェストからどうぞ。」と始まった。そしてその第1試合のダイジェストが終わると第2試合のダイジェストを始める前に市立船橋が5:4で勝った旨をあっさりとテロップと口頭で知らされ、そのあと第2試合のダイジェストが始まり、PKは最後に星陵の選手が外した1球を映したのみだった。
信じられないテレビ局の感性である。恐らく日本テレビには抗議が殺到しているだろうけれど、全く興ざめであった。
恐らくサッカー中継は4時までしか延長できないと予め決まっていてそれを動かす権限のある人がいなかったか、その人が感性に欠けていたかであろう。ビジネスは勝負だ。勝負はいつ何が起こるか分からない。事前には予想しなかったことが起こったときにどう対処できるか、どう反応できるか、それが実力である。真のプロは変化に対し瞬間的に反応する



雑感

「思考の尺度」について(学士会会報2004-VI No.849投稿分)

2004年12月25日

―知らぬ間に富士山に登頂した人はいない―昭和51年に京都大学工学部高分子化学科の西島安則研究室を卒業し、帝人株式会社に入社し11年間、愛媛県松山市の工場でポリエステルの重合関係の仕事に従事した。最初の3年間は三交代勤務で夜中の12時から朝8時までの夜勤が4日間続いたときのつらさ、そして朝、独身寮のベッドに入ったときの心地よさは今でも忘れることができない。製造業の現場の経験が今でも身にしみ込んでいる。その後、昭和62年にまったくの別世界である三井銀行に入り11年間東京とニューヨークでM&Aのアドバイザー業務に従事した。そして平成10年の秋にユニゾン・キャピタルというバイアウト・ファンドを5人で設立した。今でこそいくつものファンドが乱立状態にあるが、当時は、まだ日本に本格的なファンドもなく一般には無謀とも思われた船出であった。

しかしながら5年余り経過し何とか順調に成果を上げることができ、今年の7月には2号ファンドも立ち上がった。これを機に、ファンドからは引退し、現在は一橋大学大学院国際企業戦略研究科で社会人の人たちを中心にファンドやM&Aについての講義を行う傍ら、M&Aのアドバイザリー業務の会社も兼務している。
銀行のNY時代に、ふと感じたことを日記に記録することを始めた。何年もたって読み返してみると、当時の置かれた環境や仕事や人生に対する考え方が蘇ってきて興味深い。今回、学士会会報へ寄稿する貴重な機会を得て、ふとそれらを読み返してみた。以下は、平成10年10月18日に当時のさくら銀行時代の終わりの頃に、「思考の尺度」をテーマに書いたものである。

『久しぶりにいい天気だったので、自宅から駒沢公園に向け走り始めた。自宅からゆっくりしたジョギングで約20分のところに駒沢公園はある。公園の東京五輪記念塔前の噴水のある広場に着くと、若いアベックや家族連れが楽しそうにボール遊びをしていた。余りにいい天気なので、その広場の石のベンチに寝そべってみた。朝までの雨でベンチの上はきれいに汚れも洗い流されていた。鏡面状にツルツルした表面を背に仰向けに横たわると、秋の太陽が顔の右側を眩しく照らした。とにかく走るのは久しぶりだ。今日はどう走ろうか。96年にニューヨークから帰ってきたときに、何故か長い距離を走りたくなり、フルマラソンを走ろうと決意した。その後、週末、雪谷小学校近くの当時の自宅から中原街道に出、丸子橋のたもとから多摩川沿いに二子多摩川園まで走る片道約7キロのコースを走り始めた。雪谷は文字どおり谷になっているようで、往は上り坂がきつく、中途半端な決意で走り始めると最初の坂道で帰りだしたくなる。中学から大学まで野球部で、特に冬場に大勢で長距離を走り、競争になれているせいか走り出すとついつい速く走りたくなってしまう。多摩川沿いの河原に出るとすぐに昔の巨人軍のグランドがある。週末は朝から日が沈むまで少年野球などをやっている。野球が好きなので、左手に野球の試合を見ながら走っていると、足元の小石に気がつかずよろけてしまうことがある。巨人軍のグランドを過ぎ武蔵工業大学のグランドを越すと、後は犬の散歩をしている人達や若い二人連れなどとすれ違いながら一気に二子多摩川園まで突っ走る。東急の田園都市線のガードをくぐるとそこが往路のゴールだ。荒い息を自分で感じながら芝生の上で寝転がる。途中で歩きたくなっても走りつづけたささやかな充実感を感じながら約10分か20分休息をとる。帰りは、ゆっくり調整しながら家まで往きと同じ路を走り続ける。最後は急な下り坂を自然の力を利用して家まで辿り着く。
その後、10キロ、ハーフマラソンと距離を伸ばしフルマラソンに備えてきていたが、97年4月から約2ヶ月間、日債銀の子会社のクラウンリーシングの破産管財人の故三宅省三弁護士のアドバイザーをしていた間、人間の限界を超えるような超多忙状態になり、食事をする時間もないこともあり、睡眠時間も毎日3時間前後のことが多くなった。そうなると、心身共にクタクタに疲れて深夜床に入っても2時間くらいで目が覚めるようになる。勿論、休日も無く、私は、2ヶ月間で5月5日の一日だけ休んだのを覚えている。そうなると、週末走るような気力はまったく残っていない。そんなこともあり、週末走る習慣も、フルマラソンへの意欲も失せてしまい、それ以来約1年半の間走っていなかった。
とにかく今日はゆっくり、しかし長く走ってみようと思った。駒沢公園の約2150メートルのジョギングコースを、いつまでも走れるくらいのペースで走り始めた。1周目約15分かかった。とにかくゆっくりしたペースだ。走りながらこのペースでフルマラソンを走るとどの位のタイムになるか計算してみると、約5時間である。まあそんなものであろうと思いつつも、このペースでもマラソンを完走できないだろうなとも思いながらもくもくと走り続けた。いつも走っているときは、1周のペースからハーフやフルマラソンの完走時間を計算するのが常である。いつも掛け算や割り算をしながら走っている。頭の体操にもなる。2周目もほぼ全く同じく約15分で走ると、このまま自分のゆっくりペースがいつまで続くのだろうと思いだした。いつまでも続くような気がした。3周目、4周目もほぼ同じペース10秒も違わなかった。でも、今日は久しぶりなので5周でやめようと思ったが、最後の5周目は少しだけペースを上げてみることにした。5周目は13分30秒だった。このペースでもマラソン4時間40分位である。12分位で一周できないと4時間は切れないようである。ああしんどかったと、先程ベンチの上で寝そべっていた広場をゆっくりと歩き、石段を降り駒沢通りに出た。
大分長い時間、駒沢公園にいたような気がした。ところで今何時なんだろうと時計を見た。先程まで走りながら1周走る間だけでも何度も見ていた腕時計を見た。なんと走っている間に見ていたのは時計の“長針”と“秒針”だけだったのだ。あれだけ頻繁に腕時計を見ていたにもかかわらず時計の“短針”をみていなかったため時間が分からなかったのだ。「時計というものを見る目」、「時間を考える尺度」が違えば同じものを見たり考えたりしても入力されるものが違ってくる。走っていた間は、分秒単位でだけ思考していたのだ。同じものを見ても、見ようとする人の気持ち、思考の尺度によって、全く見え方が変わってくる。同じ腕時計を見ていても分秒ばかり見ていると時間が分からないように、時間ばかりに追われていると日にち単位のことが分からない。毎日に追われていると年単位のことが分からない。逆に年単位のことしか考えず、日々の進捗をなおざりにするといつまでたっても何も進まない。
ビジネスでも1億円単位のことばかり考えていると、100億円単位のビジネスのことは思いつかない。だからといって100億円単位のことばかり考えていると現実離れしてしまう。人間の思考尺度は柔軟に切り替え、大きく自らの方向性を確認しながらも、足元の緻密な作業を行う必要があるようである。』

以上、今読み返してみると、人間の思考尺度はカメラの焦点を合わすように柔軟に切り替え、遠くの自らの方向性を確認しながら、焦点を絞り足元の細密な部分を捉える必要があるということを当時考えていたようである。確かに状況に応じて柔軟にオートフォーカスできれば最高なのだろう。地図で渋谷のハチ公の像を調べようとして2万分の1の地図をいくら探しても渋谷は分かるがハチ公広場までは見えない。しかし、100分の1の地図だとハチ公広場が見つかる。だからと言って、最初から東京の100分の1の地図でハチ公広場を探してもなかなか見つからない。まず、2万分の1なんかの地図で渋谷を見つけてから縮尺を絞っていかなくてはいけない。これは、ビジネスでも同じで、まずは鳥瞰的に全体像を掴んだ上で焦点を絞って具体的な戦略を立てないといけない。人生においても同様で、足元ばかりにとらわれると迷走するし、ときどき正しい方向に向かっているか焦点を変えて見てみる必要がある。「天気がいいのでちょっと散歩していたら富士山の頂上にきてしまっていた」なんてことはない。富士山頂に登ろうという目標があって少しずつ頂上を目指してこそ初めて達成できることである。ファンド事業も一段落し、これから鳥瞰的に人生を見つめなおし、更なる目標を定めて一歩一歩前進して行きたいと考えている。



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